Space & Art / 空間とアート
VOLUME 01 / PART III / CHAPTER 33

なぜアール・ヌーヴォーとセセッションは別々に「総合」を求めたか

Hortaの住居兼工房とウィーン分離派会館を、曲線の似た様式として一括しない。前者は居住と設計実務を、後者は保守的Künstlerhausから離れた作家団体の発表制度を空間にした。

ベルギー・Hortaの自邸/1890年代とウィーン分離派会館/1897〜98年実物・記録を見比べる出典 10 件
Horta自邸・階段
Victor Horta / Wikimedia Commons · Horta自邸:1898〜1901年/分離派会館:1898年/撮影年未確認 · CC0 図版情報
Victor Horta / Wikimedia Commons · 元資料
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Hortaの階段は装飾の一片ではない

1898年頃に形づくられたブリュッセルのHorta自邸と工房では、階段を上がる人の目の高さで、手すり、柱、床の模様、天窓からの光が重なる。階段写真を下から見上げ、別の踊り場から見下ろすと、曲線が貼り付けた平面模様ではなく、身体の回転と手の届く位置に合わせて立体化されていることが分かる。Horta Museumは隣接する家と仕事場を保存し、設計者の生活と職能を一つの建築に収めた例として公開する。光は単に「自然」を表す記号ではなく、深い都市の敷地の内部へ到達する条件である。ただし、今日の見学路、展示照明、保護柵は1890年代の生活と同じではない。写真に写る階段から、当時誰がどの時間帯に通ったかは言えない。形から仕事の分担を推測せず、住宅・工房という用途と保存記録を結ぶ。[1][3]

同一対象Horta自邸・踊り場Horta自邸:1898〜1901年/分離派会館:1898年/撮影年未確認同じ建物の細部。家の経路の一部分。Victor Horta / Wikimedia Commons · CC0 · 元資料[6]
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1897年:Künstlerhausから離れて何を求めたか

ウィーン分離派の公式協会史は、Klimtを中心とする作家たちが1897年、保守的なKünstlerhausから離脱して独立の団体を作ったと明記する。母体を漠然と「アカデミー」や「官展」と呼ぶと、何から誰が離れたのかが見えなくなる。初代会長はKlimt。創設者にはKolo Moser、Carl Moll、建築家Josef Hoffmann、Joseph Maria Olbrichらがいた。分離は曲線を共有する様式宣言だけではなく、誰が展覧会を企画し、選び、作品を見せるかという展示制度の変更だった。1898年にOlbrichが設計した会館は、その団体が自分たちの場所を持つという、実務的で可視的な決定となった。外壁にあるVer Sacrumの文字は、同名の雑誌と建物を結ぶ。1898年創刊号の表紙を外観と並べれば、印刷物と展示空間の両方で新しい観客を作ろうとしたことが読める。ただし雑誌の一図柄から団体の全員を一つの美学に還元しない。[4]

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会館の位置と形は市との交渉で変わった

分離派自身の建設史は、Olbrichが当時Otto Wagnerの事務所で働く三十歳の建築家で、約十か月の設計過程で敷地と条件に応じて案を変えたと記す。最初に想定されたのはRingstraßeとWollzeileの角地だったが、初期案は市議会で激しい反発を招いた。隣接地を持つ戦争省の補償要求も障害になった。最終的にWienzeile沿いの別の、より目立たない場所へ移り、市議会は1897年11月17日に十年以内の「仮設展示館」を認めた。この移動とKarlskircheとの近接に応じて、Olbrichは有名な金色の月桂樹の葉のドームを発展させた。したがってドームを作者の純粋な気分だけで説明しない。都市の位置、隣人、許可、資金が外観を具体的に変えた。会館正面の写真に設計案・年表を重ねて読むと、建物は一枚の完成画ではなく交渉の結果になる。[2]

別個体・対照ウィーン分離派会館・外観Horta自邸:1898〜1901年/分離派会館:1898年/撮影:2007年1897〜98年に建てられた展示団体の会館の現況。Hortaの家ではない。Jorge Royan / Wikimedia Commons · CC BY-SA 3.0 · 元資料[7]
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表紙が示すのは建物以外の展示制度

『Ver Sacrum』1898年創刊号の表紙を会館外観に続けて置く。ウィーン分離派は展示会場を持つだけでなく、印刷物で自分たちの活動と言葉・図案を広めた。表紙の美しさを「同じ装飾が全作品に広がった」証拠にせず、刊行という媒体が展覧会への案内と自分たちの発表権を支えたと読む。分離派自身の協会史は1897年に保守的Künstlerhausから離れ、Klimtが最初の会長となり、Olbrich、Hoffmann、Moserらが関わったことを明記する。会館の建設史は当初の敷地が認められず、別敷地で期限付きの許可となった交渉を示す。つまり一つの外観には、自治体の条件、団体の資金、展示の制度が重なる。[4][2]

別個体・対照『Ver Sacrum』創刊号刊本表紙:1898年/複製撮影年未確認ウィーン分離派が1898年に刊行した機関誌の表紙。会館外観だけでは見えない出版媒体。Alfred Roller / Wikimedia Commons · Public domain · 元資料[8]
別個体・対照分離派第1回展ポスターポスター:1898年/展示写真:2017年Klimtが手掛けた1898年第1回展のポスター。会館・雑誌とは別の観客への呼びかけ。2017年の展示写真。Daderot / Wikimedia Commons · CC0 · 元資料[9]
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展示する室は作品ごとに変わる

住宅のHorta階段は住む・働く人の反復的な移動を受ける。一方、分離派会館は作品を取り替え、展示のたびに関係を構成するための場所である。現在の白い展示室を1898年の初回展覧会の再現と呼ばない。協会のアーカイブには1897年の初期スケッチ、1898年の会館設計案、第二回展覧会の絵葉書が示されている。これらの文書は、今日の建物写真とは異なる時点の証拠だ。外壁の金文字、入口から展示室へ入る方向、内部の余白を見てから、初期の展示記録へ戻る。展示空間の「総合」とは、作品、建築、ポスター、雑誌、鑑賞者の関係を企画することだが、どの展示でどのように実現したかは個別資料に答えがある。現況の空白を見て当初の展示物の位置を勝手に埋めない。[2][4]

別個体・対照分離派会館・室内Horta自邸:1898〜1901年/分離派会館:1898年/撮影:2017年同じ会館の2017年現況。1898年の展示の実景ではない。Shesmax / Wikimedia Commons · CC BY-SA 4.0 · 元資料[10]
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二都市の「総合」は何を束ねたか

Hortaの自邸と工房を、ウィーンの会館の先行形とする必要はない。前者の中心は都市住宅の内に私生活と建築家の仕事を収めることで、後者は作家の発表機会と観客の経験を制度ごと作り直すことだった。鉄やガラスや装飾線に共通する語彙があっても、施主、敷地、用途、公開の仕方が違う。見比べる際には「同じ曲線」がどの部材にあり、誰のどの動作に作用するかを言う。Hortaの手すりでは握って進む手と視線、分離派の葉のドームでは街の遠くから団体を認識する視線、雑誌表紙では紙を手に取る読者が相手となる。この三つは同じ縮尺に置けない。二枚の写真から直接の影響関係を立証せず、両者の設計者・団体の記録を照らして接触が確認できるときだけ影響という語を使う。[1][2][4]

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保存と排除の履歴まで読む

分離派は当初から開放的な制度を掲げたが、公式協会史によれば女性が会員として認められたのは1949年である。初期展には女性作家も参加していたため、展示への参加と団体の会員資格は分けて書く。館の金色のドームを「自由」の象徴としてだけ示すと、実際の規則の排除が見えなくなる。Hortaの家もいまは博物館として保存され、私的な生活空間が公共の教育装置へ変わった。現在の来館者が歩ける範囲、撮影できる角度、失われた調度は元の住宅の全体ではない。図版には創建時、撮影時、保存後という時間を分ける。両者の比較では様式名を列挙するだけでなく、形を要求した社会関係を資料から追う。[4][1]

Horta自邸は自分の居住と設計実務を同じ建物に含むため、階段は家族と仕事関係者を運ぶ建築の一部として読む。対するウィーン分離派会館は団体が作品を発表するための専用の場所で、1898年の『Ver Sacrum』表紙はその活動が出版へも広がることを示す。外観の曲線や金の冠だけを比較せず、誰の出入りを組み、誰に作品を見せる建物かを問う。分離派の初期に女性作家が展示したことと、1949年まで正式会員になれなかったことも協会史に記される。開放的な展示を掲げた制度の限界として残す。[4][1]

1898年の雑誌表紙と第1回展ポスターは同じ『分離派のグラフィック』でも用途が異なる。前者は継続的な刊行物の顔、後者は展覧会への時限的な呼びかけである。会館の外観写真と三者を並べると、都市に建てた場所、観客を招く印刷物、作家間で続ける媒体がそれぞれ必要だったことが見える。Künstlerhausから離脱した年と会館を開いた年も混同しない。 1898年のポスターは展覧会の広告で、創刊号の表紙とは同一作品でも同じ印刷目的でもない。 版面の差も見る。[4][1]

READING PRACTICE

一枚に戻って考える

Hortaの階段と分離派会館の展示室を「同じ総合芸術」と呼ぶ前に、何を比較すべきか。

照合の手がかり

住居・事務所と展覧会場の用途、発注主体、利用者、設計・展示の対象を分ける。見た目の曲線だけで同一起源としない。

言える範囲

Horta住宅の創建時全室写真、分離派会館初回展の室内写真・1897年設計図はここにない。現在写真と1898年印刷物は異なる時点の資料であり、初回展の配置は復元できない。

SOURCE REGISTER

出典・図版

  1. [1] Horta Museum, house and museum
    https://hortamuseum.be/maison-musee
  2. [2] Secession, building history
    https://secession.at/ausstellung_zu_modern_fuer_die_erste_reihe_die_baugeschichte_der_secession
  3. [3] UNESCO, Major Town Houses of Victor Horta
    https://whc.unesco.org/en/list/1005/
  4. [4] secession.at
    https://secession.at/association_of_visual_artists_vienna_secession
  5. [5] Victor Horta / Wikimedia Commons
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Staircase_of_the_Victor_Horta_own_house_%2825%2C_rue_Am%C3%A9ricaine%2C_1060%2C_Brussels%29.jpg
  6. [6] Victor Horta / Wikimedia Commons
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Staircase_%28first_landing%29_of_the_Victor_Horta_own_house_%2825%2C_rue_Am%C3%A9ricaine%2C_1060%2C_Brussels%29.jpg
  7. [7] Jorge Royan / Wikimedia Commons
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vienna_-_Secession_building_exterior_historic_Vienna_-_6554.jpg
  8. [8] Alfred Roller / Wikimedia Commons
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ver_Sacrum,_Issue_1,_January_1898.jpg
  9. [9] Daderot / Wikimedia Commons
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Poster_for_the_first_exhibition_of_the_Viennese_Secession,_Gustav_Klimt,_1898,_lithograph_on_paper_-_California_Palace_of_the_Legion_of_Honor_-_San_Francisco,_CA_-_DSC02769.jpg
  10. [10] Shesmax / Wikimedia Commons
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wiener_Secessionsgeb%C3%A4ude._Innenr%C3%A4ume._2017-10-01_11-16-04.jpg